曲がりくねった道をずっと行ったその先には、大きな一本の桜の樹が生えている。まるで産まれたてのように瑞々しい朝の陽の光を燦々と浴びたその樹の下には、葉明の予想通り彼の探し求めていた姿があった。彼は、ようやく見つけた木乃と茎子の二人の元へと近付いていく。
すると、ようやく葉明の存在に気付いた木乃が、娘の茎子をその腕に抱えたままゆっくりと振り返った。
「探したぞ。こんなところにいたのか」
言いながら、葉明は二人の隣に並んで佇むと、目の前にそびえ立つ満開の桜の樹を見上げる。
「それにしても、二人だけで花見なんて狡いぞ。どうせなら俺も誘ってくれりゃ良かったのに」
葉明が幾分不満げにそう口にすると
「何言ってんだい。あんたはついさっきまで談合だっただろうが」
「そんなもの、いくらでも抜けて来たさ」
「馬鹿をお言い。麻倉の次期当主として、そんな勝手な真似ばかりして許されると思ってるのかい?」
「当主だからこそ、それくらい許されると思うがな」
葉明のそんなあっけらかんとした返答に、木乃は思わず「はあ…」と深い溜息を吐いた。
それからやおら、木乃はその視線を再び目の前の桜の方へと向ける。そうしている彼女は、いつもその間だけここではないどこか遠い世界へ渡ってしまっているような、まるで夢の中にでもいるかのような儚げな姿に変わる。葉明は、そんな木乃の横顔を見つめながら
「…思い出してるのか?」
ふと、そう尋ねてみる。だが、木乃はその問い掛けにあっさりと
「思い出してなんかいないさ」
言いながらかぶりを振って
「そもそも、忘れたことなどないのだから」
二度と戻れないかつての日々を思い出しているかのように、木乃はそう言いながら懐かしそうにそっと目を細めた。そんな木乃の姿に、葉明はほんの少しだけ肩を落とすと
「…ふうん」
自分から聞いておきながら、どこかつまらなさそうに口を尖らせる葉明を、木乃は半ば呆れた様子で見つめ返した。たしかに、自分は過去を忘れたりなんてしていない。が、一方で今この瞬間を含め、騒々しい日々の中では、これから待ち受ける未来までも想像するとそれどころではないのが現状だ。故に、時折こうしてその合間にそんなかつての日に思いを馳せる。
だからこそ、木乃は葉明の嫉妬にも似た想いに呆れ果てていた。全く…今自分が抱いているのは、一体誰の子供だと思っているんだか。
すると、不意に木乃に抱きかかえられていた茎子が、ひらひらと降りしきる桜の花びらを捕まえようと、そちらに向かって懸命にその小さな手を伸ばし始めた。だが、そんな気持ちにせかされるほど、ただ闇雲に腕を振り回してみても羽のように軽い花びらはあっさりと飛ばされてしまい、その手の中からすり抜けていってしまう。
だが咄嗟に、そんな彼女のかわりに手をかざした葉明がそのうちの一枚をいとも容易く掴んでみせる。
「ほら」
葉明が手にした花びら茎子に差し出す。その掌の上に乗った花びらを見るなり嬉しげに声を上げてはしゃぐ娘の姿に、ふと木乃は不思議な気持ちを味わっていた。葉明という男は、時々こちらが驚いてしまうようなことを、こんなふうに淡々とやってのけることがある。押しが強いように見せかけて、意外にこの男が繊細なのを、木乃はよく知っている。器用といっても良い。ふわりと、まるで引き寄せられるかのように葉明の掌に舞い落ちた桜の花びら。その姿を見ていると、木乃はまるでその様子がさも自分のことであるかのように感じてしまう。
自分が、いつの日か彼に告げられた言葉を思い出す。その響きが、今日までの自分を支えてきたような気がする。今この瞬間のような、ささやかな幸せをひとつひとつ積み重ねて、そっと包み込むように大切に育んで来た道程。それはいつしか、木乃の生きる証になっていた。
「…葉明」
ふと、木乃は口にしてみる。
「ん?」
「あたしにも、取っとくれ」
言って、その指で花びらの方を指差す。すると、何故か葉明は春の風に舞う花びらから背を向け、かわりに木乃の傍へと近付いてゆくと、やがてそっとその頬に唇を落とす。
「…お前には、こっち」
そして、してやったり、と微笑む夫に対し
「…馬鹿者が」
今度こそ。本気で呆れた声で妻は呟いた。その白い頬には、まるで桜の花びらのようにほんのりと小さな紅い痕が浮かび上がっていた。


チェリー
(葉明と木乃/20061001)



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