その夢の中の自分は、たしかにこの上なく幸せそうだった。
ただ同時に、果てしなく空虚だった。その理由を、慶喜だけが知っている。
けれどもそこでは、慶喜はその様な自分の姿をただみていることしか出来ないのだ。彼と同じように。
直弼は、そんな自分にもただ静かに優しく笑いかけていた。けれども彼が、本当はその瞳の奥に哀しみを隠しているのが慶喜にはわかってしまう。ところがそこでの自分はもはや狂気に蝕まれており、そんな直弼の想いなどまるで気付くことすらなかった。そしてそんな自分自身の気持ちもまた、今の慶喜には痛いほど理解出来てしまうのだった。
幼い頃からずっと孤独と共に生きてきた慶喜は、ひとりにされてしまうことを人一倍怖れ、いつも怯えていた。将軍という立場上、そのような姿をおいそれとは人前に晒すことなど出来なかったけれど、本当の自分がいかに寂しがり屋であるのかを一番よく知っていたのが、他ならぬ直弼だったのだ。だから、あのときの自分はそんな直弼に見捨てられてしまうことが何よりも恐かった。彼がもう既に死んでしまっているとも知らずに、ただひたすら一人で彼を待ち続けなければいけない辛さに耐えきれず、いつしか無意識のうちに自身の天歌の力によってこの京の都に住まう人々を全て眠りに就かせた上、ついにはそんな自分を止めようとやってきた龍馬たちの魂まで喰らい、ついには彼らとひとつになってしまった。
徳川の怨霊とも、気付けば完全に同化してしまい慶喜自身がその一部となってしまったことを、自分もまたその内に取り込まれていた直弼はひどく憐れんでいたが、当の慶喜はむしろそれを喜んですらいた。
もうこれでひとりぼっちになることもない。
皆がひとつになれば、弱いものも強いものもみな等しく、誰もが争わずにすむ。
ここには悲しみも、苦しみも痛みすらも何一つ存在しない。
それは、まさしく天歌による泰平に他ならなかった。ただ、その実態はもはや直弼が想定していたものとは大きく異なってはいたものの、形こそ違えどそれは彼がかつて口にしていた通りのものでもあった。 そう、ある意味これは慶喜の心が望んだ世界そのものだ。
もしあのとき、龍馬たちの歌で自分が目を醒ますことがなければ、恐らくはこうなっていたであろう未来。
ただひたすら幻の闇の中で、永久の夢を見続ける。
ずっと慶喜の心の平穏だけを願い続けていた直弼にすれば、この結末はむしろ喜ぶべきことなのかもしれない。だが、目の前で今や生気も正気も失い、ただただまやかしの幸福に酔いながら笑い続けているだけの己の姿を見ては、とてもそのようには思えないのだろうが。
それでも、少しでも自分が不安そうな表情を浮かべれば彼はすぐさまその傍へと寄り添う。たとえ、もう既に人としてのまともな心すら失ってしまっても、直弼だけはいつまでもずっと一緒に居てくれるのだ。それを、どうして幸福だと思わずにいられるだろう。

その、狂気を孕んだ夢の話をのちに慶喜は一度だけ口にしたことがある。無論、すべてをそっくりそのまま語りはしなかったけれども、それを聞いた龍馬はただ一言
「…それは、恐ろしい夢じゃな」
と呟いたのだ。
「恐ろしい、かな?」と反射的に慶喜は聞き返してしまったが、龍馬はそのことには特に気づいた様子はなく、ただ静かに「ああ」と頷いた。
「みんなが心をなくしてひとつになってしまうなんて…わしにはとても、それが幸福とは思えん」
きっぱりとそう言われてしまい、けれどもそのことにどこかで慶喜はひどく安心もした。
「うん…そうだね」
おそらく、龍馬の方が正しいのだ。そして自分は、敢えてそれを龍馬に――今この世界に生きている彼の口から、はっきりと否定してしまって欲しかったのだ。だからこそ、この話を打ち明けようと思った。 ただ、それでも心のどこかで今でもまだ自分がそれを望んでいるということも、慶喜は気づいていたのだ。
きっとまた、いつかの日にか眠りに就いた夜に自分は夢みてしまうのだろう。あの、哀しみと寂しさと、それから偽物の幸せに満ちたあのせつない夢を。


今でも夢にみる
(天歌泰平ED慶直/20150219)



inserted by FC2 system