一番古い記憶は、その背中をただ眺めている自分だった。
そもそも、父親である彼と普通の親子のような会話を交わした経験は一度もない。もっとも彼の場合、それは家庭を顧みないなどといったレベルの話ではなかったが。元より、あの男の目には自分の存在など映っていないのだろう。それは他でもない、彼の血を受け継いだ娘である自分であるからこそ尚のことよく分かる。
にも関わらず、今日に至るまで自分はずっとそれを追い続けていたような気がする。決して振り向いてもらえることなどないとわかっていても。
だから、ドカルトが例の計画を発案した際もクレンは自ら望んでユンボルになる道を選んだ。そして案の定、父である彼はそれを当然の事として受け容れた。そこには娘に対する感謝も罪悪感も何一つとして存在しなかった。けれど彼女はそれすら全て知った上でドカルトに従った。彼女には元より選ぶ権利などなかったのだ。

今クレンの目の前にいる少年は、かつてのそんな自分の姿を思い出させた。
だから、だろうか。どうしても放っておけなかったのは。
恐らくは、父であるドカルトが彼女を少年の世話役にあてがったのも。娘のそんな性格を見抜いた上で、敢えてそのように差し向けた部分もあったのだろう。しかしそれらを察した上でも尚、クレンはショベルをみているとどうしてもそんな自分の境遇に重ね合わせずにはいられなかった。
無論、少年と自分とでは事情そのものがまるで違う。ショベルはあくまでもこの件に関しては、バル・クロウの息子というだけで一方的に巻き込まれた被害者だ(ドカルトは被験者と称していたが)。だからこそクレンは、ショベルに対しドカルトに代わって罪滅ぼしにも近しいような感情を覚えないわけにはいかなかった。
ただ、当初はそのような複雑な想いで接していたはずが、いつの間にかクレン自身がショベルに対し母親にも似たような気持ちを抱くようになっていた。しかしそれも考えてみれば当然のことで、これまでに一切『家族』と呼べるような者と共に生活したことの無い彼女にとっては、ショベルはいわば初めて出来た家族のようなものだった。
そんなショベルと暮らし始めて、彼の世話を焼きながらクレンは改めて気付かされた。彼がこれまでいかに両親から愛されて育てられてきたか。まだ幼く、脳をいじられたせいもあって最初の内はクレンの手助けなしでは日々の生活もままならなかったが、ショベルは程なく新しい暮らしにも慣れ、元来の素直な性格と頭の良さで日に日に立派に成長していった。それを傍らで見守るクレンが誇らしく思えるほどに。
実際のところ、ショベルはなかなか工事戦士としても優秀であった。さすがはあのバル・クロウの血を受け継ぐだけのことはある。突然それまでの環境を全て奪われ、本来ならば失意の底に墜ちてしまってもおかしくはなかった彼をぎりぎりのところで今日まで支え続けたのは他でもない、父であるバルを取り戻そうとする強い意志に他ならなかった。たとえそれが、ドカルトに予め全て仕組まれたことであったとしても。
訓練を重ね、戦士としての成長を遂げるごとにそれは顕著となり、もはや生活する上ではクレンの手など必要なくなった頃合を見計らうように、ショベルは再びドカルトの命で本格的にゲンバーの重機士として任務に就くことになった。
もはや今のクレンに出来るのは、そんな自分の私情は極力抑えてあくまでも世話役としてショベルを見守ることだけだった。
当然ながら、ショベルの方はクレンのそのような胸の内など知る由もない。
ただ彼の方にしても、以前は純粋に―それこそ母のように慕っていたクレンを、いつしか自然と畏れ敬うようになったのも、それこそゲンバーの教育の賜物といったところか。現場ではあくまでも上官と部下という立場をお互い崩さぬよう振る舞うのももはや暗黙の了解となっていた。それを、自分から距離を置いておきながら時折寂しさを感じる自分には、さすがのクレンも自嘲せざるを得なかったが。
そしてそのような裏事情を一切知らぬショベルにすれば、ドカルトは元よりクレンはそれこそ恩人のようなものなのだろう。それを自ら正すつもりはなく、場合によっては彼を従わせる為に敢えて口にする自分にも、いつしかクレンは違和感すら覚えなくなっていた。
――わたしも、もはやどこかおかしいのかもしれないな。
クレンはそのような己の狂気にも近い感情を自覚する一方で、冷静にその事態を受け止めてもいた。
それこそクレンには、初めからどこかでこうなることを知っていたのだ。ショベルと初めて出逢ったあの日からずっと。
いつか、こんな日が来るということを。
基本的にはこれまでずっと自分たちに従順であったショベルが、バルを取り戻す為に自ら現場に赴くことを志願した際に、改めてクレンはそれを実感した。
ショベルが、父を奪われてからもずっとそれだけを考えて生きてきたのだと。彼がそれほどまでに父であるバルを追い求めるその姿は、形こそ違えどクレンにすれば哀れまざるをえなかった。だからこそ、いつしかクレンはそんなショベルから純粋な信頼を寄せられる度、えもいわれぬ複雑な感情に包まれることになった。
ただそれでも、クレンにはショベルを見捨てきることは出来なかった。
そして一方で、自分はそれでも結局最後には父を選ぶのだということもわかっていた。他の何を犠牲にしようとも、それはもはや彼女自身にすら変えることの出来ないものだった。
ならばせめて、ショベルだけは自分の手で守ってやろう。勝手であることを承知の上で、クレンは一人そう誓ったのだった。

*

実をいうと、幼い頃のことは今ではあまりよく覚えていない。
特にまだ両親と妹と一緒に暮らしていた頃の記憶は曖昧で、とても平和で楽しかったことだけは鮮明に覚えているにも関わらず、何か一番大事な部分を忘れてしまったような感覚が今でも残っている。
ただそれにも増して、今一度あの日々を取り戻そうとする気持ちはショベルの中で成長するごとに確固たる決意として強くなっていった。
父であるバルを、自分たちの元へと連れて帰ること。そうすれば、今度こそ全てを思い出すことが出来るかもしれない。
目の前にいる『母』と『妹』もそれを望んでいる。二人にそう話しかけると、彼女たちはまたいつものように黙って笑いながら頷いてくれた。
それにしても、ようやくここまで来れた。今日までに随分と時間がかかってしまったことを改めて二人に詫びる。ずっと待たせてしまってごめん、と告げれば『母』が気にしなくてもいいのよというように笑った。『妹』は今から父と逢えるのが楽しみでしょうがないといった様子で笑っている。ショベルはそんな『妹』へ、もう少しの辛抱だと笑いかける。
ようやくだ。ようやく全てが取り戻せる。
父を奪われたあの日から、それだけを考えて生きてきた。その為だと思えば、どんなに厳しい訓練にも耐え切ることが出来た。
だが不意に、目の前の『母』からやんわり諭された。それは何も、決して自分だけの力ではないと。そこでショベルもようやく気付いたように少し恐縮して肩をすくめた。
たしかに今日まで自分がやってこれたのは、そんな自分を拾ってくれたドリルと、彼に頼まれて自分を甲斐甲斐しく世話してくれたクレンのおかげでもあると。それを忘れてはならない。
さすがは恩を大事にする『母』だけのことはある。改めてショベルも頷いた。
「もちろん。ドリル様は当然、クレン様には言葉では言い表せないほど感謝しているよ」
クレンに至っては、まだ自分が幼かった頃はそれこそ母のように自分の面倒をみてくれた。彼女と共に過ごしたあの穏やかな日々は、父を失ってしまった当時のショベルにとっては唯一の救いのようなものだ。今でも思い返すと自然に笑みが零れる。二人きりで共有したいくつもの楽しい想い出を胸に抱いているショベルを、目の前の『母』と『妹』が笑顔で見守っている。
するとふと『妹』が、まるでからかうような目で見つめているのに気付いたショベルが慌てて
「な、なんだよピッケル。僕は別にそんな…」
と、まるで言い訳をするかのように手を振った。このやり取りももはや何度目になろうか。どうやら彼女は、そんなショベルがクレンを慕う気持ちにここのところ興味津々の様子だ。『妹』も、いつしかそういう年頃になったのだなあと感じる一方、ショベルとしては、クレンはあくまでも今となっては自分の上官であり、間違ってもそのような邪な感情を抱いても良い対象ではないと思っていることもあってか、そのような目を向けられてしまうと困ってしまう。
だが、普段はそういった一線を引くことを心がけているショベルも、時折そんなクレンが見せるあの切なげな表情を目にしてしまうと、つい声を掛けたくなってしまう。けれどもそれは、自分のような立場の者が軽々しく口出しするような事ではないと察しているので、どうにか口を噤んではいるものの。
「僕は…あくまでも一介の重機士に過ぎない立場だ」
それを分かってはいても、幼い頃よりクレンの傍で過ごしてきたショベルには、薄々そんな彼女がドリルに対し、決して自分には話すことの出来ない複雑な想いを抱いているであろう場面を度々目にしてきた。
直接聞いたわけではないが、クレンがそもそもユンボルとなったのもどうやらドリルの意志によるものであるらしい。何より、彼女のドリルへの忠誠心は群を抜いて凄まじいものがある。勿論ショベルもドリルに逆らうことなど有り得ないくらいには恩義を感じているが、彼女のそれは他からみてもまた違う意味で、それこそ揺ぎ無い何かを感じる。
それこそまるで、自分が必ず父であるバルを取り戻すという強い意志のような。
「…って、それこそ僕とクレン様を同じにしちゃいけないんだろうけど」
そこで思わず、ショベルは照れくさそうに頬を掻く。いけない、いけない。つい今でも『家族』の前だとこうして気が緩んでしまう。まあ二人相手ならばまだいいが、それこそこの先クレンの前では二度とこのようなことがないように注意しなければ。
いくら、かつてはクレンともそれこそ家族同然に暮らしていたとはいえ、今はあくまでも彼女は自分の上官という立場だ。それこそ、仕事は仕事としてきちんとプライベートとは切り離さなければ。現場での公私混同は禁物である。

だが、実は以前に一度だけショベルはクレン本人の前で思わず口を滑らせてしまったことがあった。
ショベル同様、クレンはクレンであくまでも他の皆の前では、ショベルに対し自分は上官であろうと努めていた。ただ、あのときはふっとお互いに気が緩んでしまったのだろう。ちょうど二人きりになった際、まるでまだ幼かったあの頃のような珍しく和やかな雰囲気の中で、ショベルは思わずクレンに向かい「まるで、姉が出来たような気分だ」と口にしてしまった。
「僕には妹がいるので、ずっと小さい頃から彼女の世話を焼いてきました。だから、逆に自分がその立場になった経験がなくて…最初は正直、母さんみたいだなって思ったんです。初めて食べさせてもらったあのラタトゥイユが母の作ってくれたのと同じ匂いだったから」
でもだからって、さすがに母親じゃ年齢が近すぎますよね。今にすれば、いくら子供だったとはいえ失礼なことを…。そう、はにかみながらどこか嬉しそうに口にしたところで、ショベルはようやくハッと自分が今口走ったことの意味に気付きようやく我に返ったのか
「あっ…ああ…! 申し訳ございませんクレン様、調子に乗ってつい…!」
慌てて恐縮する自分へ、クレンは思わず呆気に取られたのちに、次いで曖昧な表情を返すことしか出来ないといった様子で、黙って静かにその場をあとにした。
取り残されたショベルは、これはまずいことを仕出かしたと後悔したのだが、次にクレンと逢った際に彼女はまるでそのようなやりとりなど何も無かったかのように振舞っていたので、正直若干拍子抜けしまった。
けれど、一方で彼女に何も咎められなかったことに少しほっとした。もしここで彼女の怒りに触れてしまい、折角ゲンバーの重機士として今の立場まで上り詰め、あと少しでこの手で父を取り戻せるというところまで来ていたのに、その役目からも外されてしまっては元も子もない。
そして今、それらを経てようやく掴んだこのチャンスを自分は決して逃しはしない。
今度こそ父を取り戻し、母と妹の元へと連れて帰ってみせる。
そうすれば、きっと…。
「二人とも、また昔みたいに声を上げて笑ってくれるよね」
目の前で、未だ無言で微笑み続ける『母』と『妹』に向かい、ショベルもまた笑顔で笑いかける。
その様子を、クレンが影でそっと見守っているのを無論ショベルは知らない。誰もいない壁に向かって尚も話し続ける哀れな少年の姿を眺めながら、彼女が改めてそんな彼を守ってみせると一人誓っているということも。


嘘吐きジキルと偽りハイド
(クレンとショベル/20140126)



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