その年の夏、幹久と茎子は、葉を連れて出雲へ避暑に訪れていた。東京にある幹久の古いアパートでは、この猛暑はさすがに乗り切れず、何よりまだ幼い赤ん坊の葉にとっては辛いだろうということで。
親子三人は今、涼みがてら庭の一角にある竹林の中を歩いていた。ついさきほどまで大粒の雨が降ったあとだけあって、辺りには随分と冷ややかな空気が流れており、まさに午下がりの散歩にはうってつけだ。
やがて、三人は林の中に設けられた庵の近くまでやって来ると、幹久と茎子はその傍に備え付けてあった長椅子に揃って腰を下ろした。その周囲を、いくつもの背の高い竹が長い影で覆い辺り一帯はひっそりとした薄暗さに包まれていた。
「…茎子」
そんな中、ふと幹久が隣の茎子に向かいおもむろに声を掛ける。その横顔には、笹の葉の狭間から漏れ出ずる日の光によって複雑な形をした影が映し出されていた。
「僕は…山に入ろうと思う」
ややあって、幹久は静かにそう一言だけ呟いた。
「…そう」
その言葉に、茎子は一頻りの間を置いたのちこちらも静かに頷いた。幹久の言う『山に入る』という言葉の裏に秘められた意味についても、彼女は既におおよそのことは悟っているようだった。彼がそうする理由についても。
恐らくは、全てはここにはいない彼らのもう一人の息子の為。
思えば、二人はこれまでも何かに追われるようにしてここまで来たような気がする。途中、何度も躓き倒れそうになりながらもやはり最後に辿り着いた場所がこの地だった。何故なら、ここは二人にとって全ての始まりだったから。
幹久と茎子は、今ここにはいない、生まれてすぐに自分たちの前から行方を眩ませた、あの葉によく似た双子の片割れ――彼らにとっては、長男に当たる『彼』の姿をそれぞれ思い浮かべる。未だにふとした瞬間、その存在を思い返しては、会いたいとさえ願ってしまう。たとえ、それが麻倉にとっては倒すべき相手だとしても。一度はその手で殺してしまおうとさえしたけれども、それでも、二人にとって『彼』もまた、自分達の子供であることには決してかわりはないのだ。
お互い口には出さないけれど、きっとその気持ちは相手も同じなのだろうということは、幹久も茎子も手に取るようにわかる。親というのは、そういうものだから。
「君には、つらい思いをさせるかもしれないけど…」
だが、茎子はそんな幹久にスッと片手を上げてその先を制する。それから、軽く首を左右に振ってみせた。もうそれ以上は何も言わないで、と訴えかけるように。
「…すまない」
幹久は俯きがちにそう言って謝罪を述べ、頭を下げた。だが、そんな幹久に対し茎子は努めて明るい口調で
「謝らないで。…あたしは大丈夫」
そう言って、茎子はやおら乳母車の中で寝ていた葉を両手でそっと抱き上げると「だって、あたしにはこの子がいるもの」
それから、その腕の中で葉をぎゅっと抱きしめながら、彼女はにっこり微笑んだ。一方、昼寝をしていたら突然抱き起こされた葉の方はそんなことなど知る由もなく、茎子に後ろから抱かれながらきょとんとしている。そんな二人の様子に、幹久の顔にようやく少しだけ安心したような笑みが浮かんだ。
「…そうか」
そのとき、ふと雨に濡れた一枚の葉っぱから、露がぽつりとこぼれ落ちた。そのひと滴が、まるで一筋の涙のように茎子の頬を伝う。幹久は、そんな茎子の目元をそっと拭うように唇を寄せた。それから、彼はふと改めて、茎子の腕の中で未だにぽかんとした様子を浮かべている葉を見た。そして
「葉、茎子のことは頼んだぞ」
まるで、密かな掟を交わすかのように幼い息子の手を握る夫は、そうして自分の妻を託すような言葉を口にした。母親である自分に子供を頼むと言うならばともかく、父親としては普通逆なんじゃないかとも思ったが。そんな幹久を見て、茎子は敢えてそれを口には出さなかった。
片や、当の本人でもある葉は至ってのんびりとした様子でそんな父を見返していた。その様子に、両親は二人揃って、そういえばこの子は生まれたばかりのころからずっとこんな風だったなあ…とおもむろに回想し始めた。あまり泣きもしなかったし、どちらかというと一人でよくぼおっとしていて、そのまま眠ってしまうことの方が多かった。そんな独特の気質は果たして親譲りなのだろうか。たしかに幹久も茎子もどちらかというと二人共昔から随分と落ち着いた感じではあったし、人からもそのように称されることも多かったけれど。そして葉は、やっぱり今度ものほほんとした仕草で首を傾げる。そんな息子を見ているうちに、幹久と茎子はいつしかどちらも穏やかに微笑んでいた。
彼らが口にする、祈りのような呪文の言葉は、たぶん効かない。だが、それでもいい。構わない。
今はまだ、どこか遠くにいるもう一人の家族の姿を脳裏に描きながら、二人は葉の小さな掌にそれぞれその手を重ね合わせた。


夏の魔物
(幹久と茎子/20061001)



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