画面に映ったのが、ちょうど見覚えのある風景だったのでエルエルフは反射的に「あ」と思わず口に出してしまった。静かな室内に、その声は思いのほか大きく響いてしまう。また、それまで彼らはずっと黙ったままその番組を眺めていたので、当然のように隣からリーゼロッテが「どうかしました?」と首を傾げた。
狭いマンションの一室、薄い窓ガラス一枚だけに隔てられた外では朝からずっと雨が降り続いていた。その日は休日で、もし晴れていたら久しぶりにどこかに出掛けようかという話も出ていたのだが、結果的には今の梅雨時に起こりがちな事態となってしまった。けれどもそれを、実のところ二人は然程残念だとも感じてはいなかった。お互いに人混みがあまり得意でないということもある。それに、何だかんだでこうして二人きりで大した言葉も交わすことなくただ肩を並べて時間を過ごすだけというのが、結局のところ一番楽であるというのにも今ではもう気付いてもいたので。
小さな二人がけのソファに並んで座り、何とはなしに点けておいた目の前のテレビを真剣に観るでもなくただぼんやり眺めていたところだった。昼下がりのこの時間帯に流れる番組の内容は別段どれもさして新鮮味もなく、もういっそ電源を切ってしまおうかとすら考え始めた矢先、もうじき訪れる夏のシーズンにあわせ各地のおすすめスポットとやらを紹介するという、ありきたりなその特集で流れていたのが偶然にもかつてエルエルフも訪れたことのある場所であったという、ただそれだけのことだったのだが。
「行ったことがあるんですか?」
意外にも、リーゼロッテが食いついて更に続きを促した。其処は、海辺に建てられたそれなりに立派な水族館だった。以前社会化見学と称した学校行事で連れて行かされたのだが、この近辺では稀なほど多種多様な海洋生物が飼育されているらしく全ての施設を廻るだけでも随分と時間がかかったという記憶がある。当初は面倒なだけだと思ったが、じっくり見ればそのうちのいくつかに関してはそれなりに物珍しい箇所もあった。が、案の定連れのうちクーフィアやハーノインらが真っ先に「飽きた」などと言い出しては、隣接する観覧車だのアミューズメントパークといった方面へと抜け出そうと計画しだし、生真面目なアードライやイクスアインが当然ながらそれを阻止しようとするも、結局は向こうのペースに引きずり込まれなし崩しにそのまま最後は海辺の桟橋付近をうろついていたところを皆揃って教師に見咎められてしまったという下りまで語ったところで、リーゼロッテは堪えきれず声を出して笑った。すごく楽しそう、と笑顔で感想を述べた彼女は本当にそんなエルエルフの話を心から愉しんでいるようだった。リーゼロッテはこうして、彼がその友人とこれまで過ごしてきた(というよりも殆ど巻き込まれてきたに等しいが)話を頻りに聞きたがった。正直、エルエルフにすればそれはどれも取るに足りないような出来事ばかりだったので、わざわざそんな話をしたところで本当に面白いのかと最初は懐疑的だった。けれどもその様子から、どうやらリーゼロッテが純粋に自分の語るそれらの話に興味を示しているのだと分かってからは、乞われるがままそういった事を話して聞かせるようになっていた。まるで、彼女がよく読んでいる書物の代わりにそれらを物語るかのように。もっとも、自分の語る内容はとてもではないが物語と呼べるようなものとは程遠い、些細でありきたりなものばかりだったけれど。
それでも、そんなエルエルフの話をリーゼロッテはいつだって真剣に聞き入っていた。そうしていつも、最後にそんな彼にこう言うのだ。「そんな、なんでもないような日々のひとつひとつがきっと一番大切なんでしょうね」と。
そしてそう言われてしまうと、エルエルフはいともあっさり「そうかもしれない」と素直に思ってしまうのだった。彼女とこうして話をしていると、いつもふとした瞬間にこういったことに気付かされることがよくある。自分がこれまでただ当たり前だと思っていたことや、気にもかけていなかったような小さなことが、本当はどれぐらい大事だったのか。そういう本質的なことを、彼女は何故かいつも決して難しい言葉を遣うでもなくただ伝えることが出来てしまう。さも年老いた熟年者が若輩者を諭すかの如く。それは、今も外で降り続いている雨みたいに、エルエルフの考えをゆっくりと丁寧に溶かしてゆくのだった。決して洗い流すといったような激しいものではなく、あくまでも穏やかに、淡々と。
ただ、尚も画面の方へ目をやりながらリーゼロッテはふと呟く。
「けれどわたしも、そのことにはきっと今にならないと気付けなかった」
言いながら、リーゼロッテは改めてエルエルフの方を見つめて「そんな風に考えるようになったのも、貴方と出逢ってからの事だから」
そうして微かな笑みを浮かべると、そこでようやくエルエルフは思い至った。自分の語るそんな何気ない記憶ですら、彼女にとってはこれまで自身で体験したことなど殆どないようなものばかりなのだと。聡いので時々忘れてしまいそうになるが、相手だって所詮はここでは自分と同じ、まだほんの十代の少女なのだ。先ほどからもずっとブラウン管越しに流れている映像に今も興味を示している様子の彼女へ、気付けば咄嗟に口にしていた。―だったら、次は二人で行けばいい。
そういうエルエルフにほんの一瞬だけ驚いた表情を見せたのち、やがてリーゼロッテは嬉しそうに、少しはにかみながら頷いた。「ありがとう」
とても楽しみ、と口にする彼女の自分より一回り小さな手を取りながら、一方でエルエルフはその肩をそっと自分の方へと引き寄せた。


水色の窓
(現代パロディエルリゼ/20140629)



inserted by FC2 system