あれはいつの日のことだったか、
「にしんといえば、こんな話を聞いたことがあるか?」
不意に赤司が緑間にそう切り出す。彼らは部活帰りに蕎麦屋へ立ち寄り、ちょうど向かい合ってにしん蕎麦を食べている最中だった。赤司がそんな風に寄り道をするのは非常に珍しいことだったので、今でも緑間はその日のことをよく覚えている。他の面子はよく帰り道の途中でやれコンビニだのゲーセン等に立ち寄ったりもしていたが(緑間も時折付き合わされることがあった)赤司は大抵いつも一人で先に帰ってしまうことの方が多かったのだ。
だから、部活中にふとしたきっかけで緑間が一度もにしん蕎麦を食べたことがないのを知った赤司から
「じゃあ今日の帰りにでも一緒に食べに行ってみないか?」
と誘われたのには驚いた。一体どういう風の吹き回しかと勘繰ったものの、殊更断るような理由も思い浮かばなかったので緑間は素直にその提案に応じた。初めて口にしたにしん蕎麦は、正直なところあまり緑間には美味しいとは思えなかったのだが、赤司の方はどうやら以前にもこの店のにしん蕎麦を食べたことがあるらしく、旨そうに舌鼓を打っていた。それから、
「どうやら、お前の口には合わなかったようだね」
赤司が、最初に口をつけてからあまり箸の進んでいない様子の緑間を見ながら笑った。緑間は眉をしかめつつ
「いや、決して不味い訳ではない。ただ、このにおいが…」
思わずそう零したのを耳にして、ああと赤司がどこか納得したように頷く。そうか、たしか真太郎は納豆も苦手だったっけねと。
「悪かったな、付き合わせて。今から別のものでも頼むか?」
赤司の気遣いを、しかし緑間は構わないと丁重に断った。一旦食べると言ったからには最後まで責任は果たすと無心で蕎麦を啜り続けるその姿に、赤司が苦笑を浮かべている。あんまり無理はするなよという赤司に、無理などしていないと緑間は強がってみせる。別段対抗しているようなつもりは毛頭ないが、赤司が目の前で平然と平らげている姿を見ていると自分だけが苦手だからという理由では残しづらかったし、何より折角の蕎麦が勿体無い。…そういえば、赤司が進学する予定の洛山高校がある京都は、たしかにしん蕎麦が名物ではなかったかと緑間が考えていたところで、赤司がさきほどの話題を持ち出したのだ。
「英語の慣用句で、"Red herring"というものがある」
聞いたことはあるか?と問われ、緑間は首を横に振る。赤司が言うには、日本語の意味としては"本来の目的や本筋から話を逸らせるためにわざと持ち出された、興味は惹かれるがあまり意味のないことがら"を指す言葉なのだそうだ。たとえば、テストの引っ掛け問題や推理小説における所謂ミスリードなどがこれに該当する。
「それが、一体にしんとどういう関係があるのだよ?」
緑間の疑問に対し、赤司は「"herring"というのは、日本語でにしんのことなんだ」と答える。その昔、英国ではキツネ狩りのための犬を育てる際、道筋にわざと燻製のにしんを目くらましに置いておいて、それによって嗅覚を鍛えたのだそうだ。にしんのにおいにつられて惑うことなく、一路真面目にキツネを追いかけるよう犬を厳しく仕込むのだ。そこから、赤い燻製にしん=注意を逸らすための魅力的なもの、ということになったらしい。いつものことながら、赤司は妙な知識を数多く抱え込んでいる。彼は決してそれらをひけらかすような真似はしないけれど、時々緑間を相手にその一端を披露してくれる。その度に、気付けば緑間はいつしかそんな赤司の語る話に引き込まれてしまうのだ。ちょうど今のように。
そこで出し抜けに、
「だから、お前も気をつけろよ」
真っ赤なにしんに騙されないようにね、と。赤司がそう忠告しながら緑間を見つめる。「真太郎は、良くも悪くも真っ直ぐだからな」
その名前の通りに。赤司がそう言いながら笑っているのを見て、ようやく緑間も我に返る。それから、またいつもの嫌味かと憤ってみたものの、そのときの赤司の指摘は実に的を得たものであったので緑間は結局何も言い返せなかった。今だけじゃない、たとえば将棋にしてもそうだ。緑間の打つ手は色んな意味で正々堂々とし過ぎている。だから、いつも巧妙な赤司の手口によってすぐさま逸らされてしまう。そうしていつも最後にはあっけなく征されてしまうのだ。まさしくその名前の如く。
けれど、緑間は諦めない。
たとえどれだけ時間がかかってしまっても、赤司の策略に幾度と無く欺かれ様とも。いつかは必ず、そこへ辿り着いてその皮を剥いでみせる。獲物を狙う獣のように、緑間は頑なに今でもそう信じ続けている。


レッド・ヘリング
(赤司と緑間/20150202)



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