ずっと、小さな世界で生きてきた。
淀んだ空気に包まれた仄暗い檻のような部屋と、露台からかすかに臨む青い空だけが、その頃の自分の知る世界の全てだった。
だから、いつか広い外の世界へ飛立つことを憧れたりしたこともあったけれど。
実際に自分の眼でそれらを見て分かったのは、この世界が決して美しいものばかりではないという、残酷だが当たり前過ぎる事実であった。
そうして外の世界を目にすればするほど、これまで自分が如何に何も知らずに生きてきたのかがよくわかった。同時に、自分がどれほど護られていたのかということも。
恐らく、彼はそれらをみんな知っていたのだろう。
二人が初めて出逢った頃。当時の慶喜は知る由もなかったが、直弼は既にこの世界の醜い部分を嫌というほどまでに見せつけられていた。だからこそ、そんな中で見つけた慶喜という存在を崇拝し、守り抜こうと決意してしまったのではないか。恐らくそこには同情も幾分かは含まれていたに違いない。立場こそ違えど、あのとき彼らはどちらも互いにそれぞれの孤独を抱え合い、共に絶望の淵に佇んでいた。今ならば、慶喜にもそれがよく分かる。もっとも当時の自分にはそんな相手の心中にまで想いを馳せる余裕などなく、ただただ彼に依存することしか出来なかった。
それでも、その頃の慶喜にとって直弼はなくてはならない存在だった。彼がいなければ、そもそも自分は今日まで文字通り生き延びることは出来なかっただろう。彼は、慶喜が生きるのを許してくれた唯一の存在だったから。
しかし、一方でこうも感じてしまう。――もし、自分とさえ出逢わなければ彼がこのような末路を辿ることもなかったのではないかと。
たしかに、当時直弼は政治的には危うい立場ではあった。もしあのとき慶喜との邂逅を果たせなければ、そのまま彦根の地に帰される可能性も十分にあり得た。だがそれでも、少なくとも命を落としてしまうよりは余程良かったのではないか?
彼をあそこまで追い込んでしまったのは、この弱さ故ではないか。
それは、直弼の死を知ってから今日までに慶喜が幾度となく考え続けていたことだった。
とはいえ、今更そう後悔したところでもはやどうにもならないということもよくわかっている。ならば自分に出来ることは、せめて彼のしてくれた行為に報いるよう、精いっぱいこの先も生きてゆくことだということも。
それでも時折、どうしようもない懺悔にも似た想いに苛まれる瞬間があった。ちょうどこの日のように。直弼の墓碑を前についそんなことを告げた慶喜を、しかし隣に肩を並べた龍馬が
「わしは、そうは思わん」
と、どこか優しい声で否定した。
「井伊は、たしかにやり方を少々間違ってしまったのかもしれん。けど、あいつは最後までずっと慶喜様のことを心配しとった」
息を引き取るその寸前まで、彼は自分の幼い主君を遺して逝くのを心から案じていた。その最期を看取ることになった龍馬は、そう回想しながら語る。
「たぶん…自分の命を懸けてでも、どうしても守りたかったんじゃ。そんな風に想えるような相手と出逢えたあいつは、きっと幸せだったんじゃないかな」
微笑む龍馬に、慶喜は一瞬不安げな表情を浮かべる。が、それから小さく「そう、かな…」と自信なさげに呟く。するとすかさず
「おお、そうに決まっちょる」
言って龍馬は更に笑った。そこで、ようやく慶喜は少しだけ笑みを浮かべながら
「うん…そうだと、いいな」
囁きながら、彼が目尻から涙を零すのを龍馬は静かに見守っていた。それから慶喜はやや気恥ずかしそうに
「駄目だな、もう泣いてばかりいないでいようって決めたのに…」
そう言って涙を手で拭う彼の頭を、龍馬はその手で撫でながら
「構わん構わん、あんときも言ったが子供は泣くもんじゃ。どんどん泣いていい」
まるで促すように言ったのち「それに…」と付け加える。
「慶喜様がそうやって思い出してやれば、きっと井伊も向こうで喜んどるじゃろ」
空の彼方に目をやりながら龍馬が口にするのに合わせて、慶喜もまた同じように伏せていた瞼を上げる。それからふと、自分が直弼に向かい最後に口にした言葉を思い出す。
――自分だけは、ずっと彼のことを忘れないと。そう、心に決めたことを。

ねえ、直弼。
この世界は決して、思っていたよりも本当は全然優しくなんてなかったけれど。それでも、自分はこれからもこの世界を生きてゆく。もう、この手を引いてくれる存在はいないけれど。その分、今度は自分自身の足でしっかりと歩いていくから。
だからどうかみていてねと、晴れた遠い空に向かって呟いた。


世界はやさしくないけれど
(慶喜と龍馬/20150213)



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